開田のあゆみ
蓬原開田・野井倉開田
開拓精神の碑(有明開田の里公園内)
馬場藤吉翁・野井倉甚兵衛翁の石像建立実行委員会 平成16年11年建立
開田整備が行われる以前の農民の生活はどんなものであったのでしょうか?
門割制度(かどわりせいど)
戦国時代も終わり17世紀になると、藩政は一国一城の外城制度に変わり、薩摩藩独特の門割制度が強まっていきました。この制度は廃藩置県が行われる明治時代まで続き、農民に強制的に連帯責任を持たせて年貢を納めさせようとしたものです。耕地も年貢も各個人に割り当てず、「門」という農民共同体に割り当てられました。これら「門」の人々は、明治10年頃までは自分の性を持たず、名だけであり、女性は墓石などに残されているように、「…ノ妻」などど記されていたのです。
農民生活の実態
門百姓の生活の惨めさは想像以上のもので、17世紀末頃の伊崎田村の記録によると、ある年の米の収穫高は945石でその内年貢として納める上納米が784石、残りの161石を門の人々で分配したということです。当時の人口が男女合わせて1247名で、一人当たり年間に1石(=150kg)消費した場合、1家族で約50日分しか食べられない計算でした。
それでは百姓の人たちは何を食べていたのでしょうか?
明治初め頃の吉利村の記録では
明治初め | その10年前 | その20年前 | |
カライモ | 三分位(30%程度) | 四分位(40%程度) | 五分位(50%程度) |
アワ | 三分位(30%程度) | 三分位(30%程度) | 三分位(30%程度) |
米 | 三分位(30%程度) | 二分位(20%程度) | 一分位(10%程度) |
麦・ソバ | 一分位(10%程度) | 一分位(10%程度) | 一分位(10%程度) |
とあり、年貢を納めた後の米の80%は翌年の植え付け用に種もみとして残さなければならないため、農民が食い繋いだ食べ物は、明治以前においては80%がカライモとアワでした。
農民のくらし
藩政時代の農民のくらしには、毎日の生活について色々な面で厳しい制約が加えられていて、ぜいたくを禁じ、年貢米を納めることが滞らないように取り締まり、お触れ書きや達示がしばしば出されました。身のまわりを飾ったり、衣食住全体にぜいたくを慎むことを強制されていました。また食べることに困って家族の増えることを抑えるために、妊婦が冷たい川水に半身をつけて堕胎をしたり、生まれたばかりの赤ん坊を木綿や手拭などで窒息死させたりしました。その行為に対して禁制も出されたが、やめられることはありませんでした。
「生かさぬよう、殺さぬよう」にと農民はしぼりとられて、「門百姓には生存はあっても生活はなかった」といわれていました。
このような実態は、藩政時代から明治時代が変わってもすぐによくなるものではなく、昭和初期の頃まで続いていたのです。
蓬原開田
日向発起人時代(第1期)
明治25年6月、都城の人である隈元宗正氏、松山篤実氏、熊本の人である川村競氏、江崎四郎氏の4氏が発起人となり、野方村川添に取入口を設けて、総工費1万2千円を予定して水路工事に着工しましたが、明治26年2月、測量設計のミスのため工事を中止し、取入口を大鳥川(菱田川の上流)高牧へ変更して再開されたのです。工事は導水路が長く、地盤が固いなどの地理的条件に加えてトンネルの掘削は山鍬やツルハシ、土を運ぶのも人力、照明は石油のカンテラといったありさまで困難を極め、工事ははかどりませんでした。4氏は資金難に悩み、前田正名氏を通じて京都の実業家大沢善助氏に援助を求めたのです。
京都発起人時代(第2期)
明治28年11月、京都の大沢善助氏、堤弥兵衛氏、高木文平氏の3氏が資本主となり、隈元宗正氏らと協力して総工費9万円を予定してエ事が続行されました。そして明治31年3月24日水路が完成し宇都鼻に通水、約120町歩(120ha)が開田されたのです。
しかし開田はされたものの、耕作上の技術の幼稚さや水不足、「赤びえ」と呼ばれる雑草のため1反当たりの収穫高は極めて低く、また明治38年に隈元宗正氏、明治39年には川村競氏が相次いで病死し、事業は大沢善助氏にまかされたのですが、この時大沢善助氏は京都にいて、政・財界での仕事がとても忙しく、現場に行って事業の推進に努める余裕はなかったのです。
開田区域の拡張は予想以上に経費がかかる上にはかどらず、その面積は明治44年までにわずか142町7反5畝(142.75ha)余りに過ぎなかったのです。
耕地整理組合時代(第3期)
馬場藤吉氏の奮起
事業の停帯を何とかして大開田実現のために奮起したのが馬場藤吉氏です。彼は地元民の力を結集して開田を拡げる運動を起こしました。
明治45年3月西志布志大崎連合耕地整理組合を結成、組合長に馬場藤吉氏が就任しました。事業の推進にあたって特に資金調達は困難を極めました。大沢善助氏より一切の権利を買収し、また新しく工事を実施するには60万円が必要と見積もられました。
(野井倉甚兵衛氏の日記を見ると、鹿児島市一泊の宿料45銭という時代です。)
資金の調達
馬場藤吉達は農工銀行からの借入交渉をくり返しましたが容易に成功せず、次々に計画を変更大正5年にようやく96,500円の借入れに成功しました。
同年12月水路拡張工事を総工費88,129円で起工し、大正6年6月、いったん完工して通水しましたが、翌日の豪雨によって壊れた箇所が続出し、秋の収穫を終えてから補修工事にかかり、大正7年4月に完成、整理地140町歩(140ha)、既成田100町歩(100ha)を灌漑することができました。
その後、十五銀行より18万円の融資を受け、開田面積の拡張諸権利の買収に着手。大正10年4月には開田の完成を記念して、開田を見渡す蓬原の経の峯に稲荷神社を建てました。
しかし、長年の苦労に加えて、公私とも多くの仕事をこなし、さらに借金返済に追われ、心身ともに疲れ果てた馬場藤吉氏は、大正11年7月23日48才の若さで病死したのです。
馬場藤吉氏の存命中に支払われた借金は半分程度で、約11万円余りが馬場常義氏に引継がれました。当時、馬場常義氏は小学校教員として勤めていましたが、月給は借金の利子の3日分にも及ばぬ状況でしたが、昭和14・15年頃にはようやく返済が完了しました。
野井倉甚兵衛氏の助力
このとき野井倉甚兵衛氏は、工事の完成のため、現場に泊りこみを続け、工事の監督、資金の調達に東奔西走しました。これは野井倉甚兵衛氏が馬場藤吉氏の義兄であるという単に兄弟の縁という理由だけではなく、菱田川を挟んで東西に広がる両台地の開田完成という共通の夢があったからです。
開拓地の活用
開拓地の多くは移住者によって購入されました。大正3年の桜島の大爆発による避難民や、従来の土地を売って買い替える者が購入し、1反(10α)当たり250円位で取り引きされました。開田当時は漏水現象がはなはだしく、よく水争いなどが起ったといわれていましたが、年を追って良田となり大正11年頃のかんがい面積は430町歩(430ha)に及びました。戦中・戦後を通して西志布志村の穀倉地帯として食糧を供給する基地となり、稲作の重要な地域として現在にいたっています。
蓬原開田の歴史
年号・年 | 西曆 | 月・日 | 出来事 |
---|---|---|---|
安政1 | 1854 | 不明 2月9日 | 川村競氏 出生 大沢善助氏 出生 |
安政3 | 1856 | 9月 | 隈元宗正氏 出生 |
明治8 | 1875 | 10月3日 | 馬場藤吉氏 出生 |
明治24 | 1891 | 12月 | 隈元宗正氏が県へ開田工事願書提出 |
明治25 | 1892 | 6月 | 隈元宗正氏らが蓬原開田着工、取入口を川添に設ける 測量のミスにより失敗。取入口を大鳥川の高牧に変更 |
明治26 | 1893 | 2月 | 岩石が硬く難工事と資金不足により事業を失敗 |
明治27 | 1894 | 7月 | 前田正名氏の斡旋で京都の大沢善助氏が事業に協力する |
明治28 | 1895 | 11月 | 取入口を下平野に変更して工事を再開 |
明治31 | 1898 | 3月24日 | 通水し120町歩を灌漑(現在「古田」と呼ぶ) |
明治37 | 1904 | 9月5日 | 隈元宗正氏49歳で永眠 |
明治39 | 1906 | 7月23日 | 川村競氏53歳で永眠 |
明治43 | 1910 | 7月28日 | 馬場藤吉氏ら有志が耕地整理組合を作るため蓬原早馬丘で集会 |
明治45 | 1912 | 3月5日 3月11日 | 西志布志大崎連合耕地整理組合の設立認可 耕地整理組合設立総会が行われ、馬場藤吉氏が組合長となる |
大正5 | 1916 | 12月23日 | 蓬原耕地整理組合開田工事起工式 |
大正6 | 1917 | 6月16日 | 蓬原開田初めて通水するが豪雨のため一時通水中止とする |
大正7 | 1918 | 4月19日 | 開田工事完成整理地140町歩既成田100町歩に灌漑 |
大正10 | 1921 | 4月3日 | 事業完成を記念して蓬原の経の峯に稲荷神社を建立する |
大正11 | 1922 | 7月26日 | 馬場藤吉氏48歳で永眠 |
昭和33 | 1958 | 4月19日 | 蓬原開田碑建立 碑には「幾十年幾十万の汗乃水」の銘文 (文は馬場藤吉氏の長男常義氏の作) |
野井倉開田
開田の息吹き
野井倉開田は古く藩政時代から計画されていましたが、明治25年宮塩の宮脇政右ヱ門、市柴の久保田常右ヱ門外数名によって引き継がれました。明治33年2月菱田川の水利権の認可を得て、牛ヶ迫の高時に原始的な粗朶堰(木の杭や竹などを使った簡単な堰でつくられたダム)を造り、牛ヶ迫に約3反歩(30a)の水田が拓かれました。
野井倉甚兵衛氏の奮闘
大正元年、野井倉甚兵衛氏外数名の人たちは、野井倉の仮屋頭から通山に至る1千町歩(1000ha)の土地の水田化の実現を目指し、基本調査を西志布志村より県に申請してその実施に努めました。しかし、大正10年農林省の土地利用計画樹立に基づく実地測量の結果、導水路工事が難工事の上、多額の経費が必要であるとの理由から工事は無理との結論がなされたのです。
そこで昭和6年1月組合員645名で野井倉耕地整理組合を設立し、再開への努力が続けられることになりました。組合長は志布志の岩崎宗茂助氏で、その後昭和10年7月から野井倉甚兵衛氏が引き継ぎました。組合設立後の第一の問題は、資金の調達と工事施行者の決定でした。施行者は岩崎組合長のとき、大分県の樹村圓治氏にさせるとの約束がかわされていましたが、県耕地課としては当時日本水電(現在の九州電力)が水路の途中で4,000kwの発電計画をしていて、取入口から発電所までの一切の工事をするということで、日本水電に任せたいとの行政指導でした。そのため、野井倉甚兵衛氏は昭和11年初めから13年6月まで、数十回にわたって県耕地課、日本水電、樹村圓治氏との話し合いがくり返されましたが、昭和13年日本水電と契約。昭和16年には戦時下における農地開発法の制定により国の機関である農地開発営団が発足し、野井倉の開田事業も国営事業として行われることになりました。
太平洋戦争の影響
昭和17年1月から調査にかかり、水田520町歩(520ha)、畑地100町歩(100ha)の開墾計画で工事に着手しましたが、太平洋戦争の最中で、極度の労力不足のため県下の青壮年、村人と野井倉甚兵衛氏(右から2番目が野井倉甚兵衛氏)学生の奉仕を得て、開田及び区画整理を実施しました。その延人数は約23,400名でした。
昭和17年7月8日には天皇陛下が野井倉の開田事業の進み具合を心配され、侍従をつかわされて開田状況を視察されました。
しかし昭和19年、戦況の悪化により野井倉台地に海軍飛行場が設置されることになり、280町歩(280ha)の開田予定地がこれに当てられることになったのです。そのため、・時事業が苦境に立たされましたが、終戦と共に日本の食料問題解決のため政府は野井倉の開田事業を緊急開拓事業にとりあげ、全額国の費用で施行することになりました。昭和22年9月農地開発営団が閉鎖となり、本事業は農林省直営に切り替えられました。しかし同年の11月26日、連合国最高司令官総司令部(GHQ)経済安定本部の調査の結果、本工事は莫大な資材と巨額の費用を必要とするとの理由で中止の命令を受けました。工事続行のために陳情、その他手を尽くした結果、昭和23年6月までに通水し、水稲を植付けることを条件に工事続行の許可が得られました。
天皇陛下の御巡幸と通水式
昭和24年6月4日、天皇陛下の御巡幸により、野井倉台地を視察され、吉川安次郎野井倉開拓建設事業所長が工事の概要を御説明しました。その後野井倉甚兵衛氏夫妻は多年の労苦に対し、親しくねぎらいの言葉をたまわったのです。
天皇陛下の御巡幸の翌日の6月5日、通水式を挙行。勢いよく流れる導水路の中にバッチョがさをかぶった野井倉甚兵衛氏が小舟に乗りさっそうとトンネルから出てきました。周囲の人々の間から「万歳!!万歳!!」の大合唱が野井倉台地のすみずみに響きわたりました。
同年11町5反歩(11.5ha)を植付け、秋には初米を献上しました。
美田
昭和27年10月、牛ヶ迫の取入口堰堤の建設(従来の石積のものからコンクリートに改修・補強工事)に着手、昭和28年7月竣工、計画水量毎秒5トンの送水が可能となりました。ここに長年の念願がかない、野井倉の開田事業がついに完成したのです。昭和30年には、273町3反歩(273.3ha)を植付け。農民は近年稀な豊作を喜び、黄金色の美田は現在に至っています。
野井倉開田の歴史
年号・年 | 西曆 | 月・日 | 出来事 |
---|---|---|---|
安政5 | 1859 | 不明 | 宮脇政右門氏 出生 |
明治5 | 1872 | 1月1日 | 野井倉甚兵衛氏 出生 |
明治17 | 1884 | 野井倉甚兵衛氏が父仁助の後を相続 | |
明治24 | 1891 | 磯の島津邸で野井倉開田の計画に承諾を受け測量を行う | |
明治25 | 1892 | 1月 8月 | 野井倉甚兵衛氏が馬場藤蔵氏(馬場藤吉氏の父)の長女キチさんと結婚 野井倉甚兵衛氏ら数名と隈元宗正氏が野井倉開田について何回か打合せをした |
明治27 | 1894 | この頃より宮塩の宮脇政右ヱ門・市柴の久保田常右ヱ門らが牛ヶ迫・黒葛地区の開田を計画 | |
明治28 | 1895 | 野井倉甚兵衛氏西志布志村役場に勤務 | |
明治33 | 1900 | 2月 | 宮脇政右ヱ門氏ら菱田川の水利権認可及び着工 牛ヶ迫3反歩(30g)を開田 |
明治43 | 1910 | 10月 | 野井倉甚兵衛氏へ県耕地課高原技手が開田を示俊 |
明治44 | 1911 | 10月8日 | 県へ基本調査申請を提出 |
明治45 | 1912 | 1月 | 逓信省臨時発電水力調査局が牛ヶ迫の流水量を調査 |
大正9 | 1920 | 5月 | 野井倉甚兵衛氏、県耕地課竹内末五郎と上京し、農林省へ開墾 助成金の件で陳情活動 |
大正10 | 1921 | 農林省土地利用計画樹立調査を実施。工事費が多大になるとの理由で中止の方がよいとの結論 | |
昭和4 | 1929 | 10月12日 | 野井倉耕地整理組合設立認可申請書提出 |
昭和5 | 1930 | 11月8日 | 野井倉耕地整理組合設立認可 |
昭和6 | 1931 | 1月31日 | 野井倉耕地整理組合設立総会 組合長は岩崎宗茂助氏に決まる |
昭和10 | 1935 | 7月14日 | 野井倉耕地整理組合長に野井倉甚兵衛氏が就任 |
昭和11 | 1936 | 3月23日 10月末 | 工事実施に伴う日本水電と大分の樹村圓治氏との契約問題で役員相互の間で意見の対立 副組合長吉岡仲兵衛氏辞表提出 組合長野井倉甚兵衛氏辞表提出 昭和13年まで数十回に及ぶ県との交渉 |
昭和12 | 1937 | 不明 | 宮脇政右ヱ門氏79歳で永眠 |
昭和13 | 1938 | 4月13日 | 日本水電と契約 |
昭和13 | 1938 | 6月9日 12月14日 12月31日 | 樹村圓治氏と解決証の取り交わし 野井倉甚兵衛氏坂井市次氏・安崎茂吉氏が志布志警察署に留置 午後3時釈放 |
昭和16 | 1941 | 12月8日 12月14日 | 太平洋戦争へ突入 農地開発営団で開墾事業を行うことになり野井倉耕地整理組合が同意する |
昭和17 | 1942 | 1月16日 1月22日 2月21日 7月8日 | 午前8時上ノ門地区の山林の切払いから工事を着手する 青年学校生徒200名動員 上水流堰堤の改修工事に着手 侍従ご差遣により各工区の作業を巡視される。 |
昭和18 | 1943 | 5月18日 | 上水流堰堤の竣工式 |
昭和19 | 1944 | 6月 | 野井倉開田予定地の中心280haに海軍飛行場が設営されることになり、計画変更を余儀なくされた |
昭和20 | 1945 | 8月15日 | 終戰 |
昭和22 | 1947 | 8月16日 9月 11月26日 12月 | 連合国最高司令官総司令部(GHQ)公共事業課による査察 農地開発営団の閉鎖により事業は国(農林省)が引き継ぐ GHQによる事業中止命令 陳情活動が功を奏し事業再開 |
昭和23 | 1948 | 8月 | 最も長い27号トンネル(955m)が貫通 |
昭和24 | 1949 | 6月4日 6月5日 6月19日 8月 | 天皇陛下のご巡幸 野井倉開田通水 デラ台風により導水路等が被害を受ける 開田地11.5haに第1回の植え付け |
昭和25 | 1950 | 開田地30haの植え付け | |
昭和26 | 1951 | 9月2日 11月5日 | 野井倉耕地整理組合総会で野井倉土地改良区に組織変更することが可決 野井倉土地改良区設立認可 |
昭和27 | 1952 | 昭和28年にかけて牛ヶ迫頭首口の改修工事 | |
昭和30 | 1955 | 11月8日 | 野井倉開田竣工式典野井倉開田記念碑建立 「農夫は土のめぐみにひたり陽は金に」の銘文(文は椋鳩十氏の作) |
昭和35 | 1960 | 3月4日 | 野井倉甚兵衛氏89歳で永眠 |
昭和37 | 1962 | 3月 | 農林省野井倉開拓建設事業所閉鎖 |